浄法寺塗の伝統工芸士

塗師 岩舘隆さん、岩舘巧さん

3代続く、うるし一家

 岩舘家は、浄法寺のうるしを語る上で欠かせない家だ。大正生まれの岩舘正二さんは、漆掻き。息子の岩舘隆さんは塗師で、地元では唯一の浄法寺塗の伝統工芸士だ。そして、その息子の巧さんも、いま修業中の塗師である。正二さんは、ずっと浄法寺漆の牽引役だった。浄法寺うるしの生産組合、日本うるし掻き技術保存会など、業界の発展のためにさまざまな団体を立ち上げたほか、漆の販売で全国を飛び回っていた。そんな活動的な父に時、22、23歳くらいのころ呼び戻され、塗師の道に入ったのが隆さん。浄法寺における浄法寺塗復活のキーパーソンだ。

漆のフルーティな匂いのなかで、
三代続く浄法寺うるしの家

かつて正二さんが採る漆は、ほかの漆器生産地に出荷していた。地元では、浄法寺塗が廃れていたからだ。だが、地元でも、浄法寺漆を原料としてだけではなく、加工して世に出したい思いが高まり、国の事業を活用して浄法寺塗の復活を目指した。隆さんは、朝は市場で働きながら、県の工業技術試験場(現・岩手県工業技術センター)で勉強。その後、浄法寺塗を続けていた盛岡市内の工房に入り、トータルで3年くらい修業した。

 補助事業だったことから期間が決まっていたため、独立。だが、塗師としてはこれからという時期だ。作り方などに不安があれば、試験場に電話し、確認した。塗る作業の傍ら、売り込みにも出かけた。熱心に指導してくれた試験場の町田俊一さんは、東京出身ということから、首都圏での売り込みも手伝ってくれた。「やんなきゃいけないから、たいへんと思うひまもなかった。とにかく、まわりの人から助けられたと思います」と、隆さんは当時を振り返る。

無地漆器のデビュー

復活させた浄法寺塗は、無地の漆器となった。林業として漆がある。その素材を生かすため、いまできることはこれ。そう考えた結果だった。そして、丈夫であることを目指した。下地をつける方法も試したが、はがれやすい。国産の地の粉(じのこ)の入手がむずかしくなったという事情もあり、漆だけを重ね塗りする手法に落ち着いた。そのかわり、木地はトチの木よりさらに堅いミズメでつくるようにした。

塗師を始めて40年以上、隆さんは迷うひまもなく無我夢中で漆を塗ってきた。近年は漆を掻いたり、漆を植えたりもする。

塗師を始めて40年以上、隆さんは迷うひまもなく無我夢中で漆を塗ってきた。近年は漆を掻いたり、漆を植えたりもする。

漆は湿度がないと乾かない。乾燥ではなく、硬化するのだ。そのため、塗った漆を固める空間を「漆風呂」と呼ぶ。板に載せて、出し入れする。

漆は湿度がないと乾かない。乾燥ではなく、硬化するのだ。そのため、塗った漆を固める空間を「漆風呂」と呼ぶ。板に載せて、出し入れする。

無地は当時としてはかなり大胆。町田さんのアドバイスで、鮮やかな朱も取り入れた。それまでは朱といえば落ち着いたベンガラの朱だったが、東北より南の地域では受けなかった。「漆がよくないと、無地は無理だと思います。ああいう色艶や感触にはならない」と隆さんは言う。確かに浄法寺塗は、朱でも品のある色味で、落ち着いた光沢である。

とはいえ、40年前、漆器といえば華やかな高級品が主流。岩手県内の県産品を扱う店では、無地は売れないと言われた。それでも「普段使いの器だから」と説明し、東京の店に置かせてもらった。浄法寺という国産漆では絶対的なネームバリューのおかげだと、隆さんは考えている。以来、その人気は高まり、定着した。椀はずっと同じ形だ。取り扱っている店から、デザインを変えてほしいとのリクエストもくる。一方で、「デザインを変えずに、ここまでもつのはめずらしい」という驚きの声もあるそうだ。

三代目もうるしの道へ

食卓の椀は父がつくった漆器。漆器があるのはあたりまえで、特に意識することもなかったが、「ちょっと嬉しいような気もしていた」と、長男の巧さん。

さまざまなメディアが来て、多くの人に知られている父を尊敬のまなざしで見ていた。工房は遊び場だった。小学生の頃は小遣い稼ぎに、木地に漆を染みこませる木地固めを手伝っていたこともある。いつか継ぐものという意識は心の奥底に流れていた。

親父という大きな山を隣に見ながら、浄法寺塗をつくる巧さん。物産展などで売場に立つこともある。

 「やれと言われたことはないけど、『そろそろ戻ってくるか?』と、聞かれて。もう少し外の世界を見たい気もありましたが、21歳で入りました。でも、早いうちに入ってよかったと思いますね。身につけるものが多い世界ですから」と話す巧さんは、修業を始めて、もう13年。仕上げも任せてもらえるようになった。だが、「父は遠い」と語る。そろそろ自分の名前で漆器をつくることも意識するが、父がつくったもの以上の漆器があるのかと迷う。この道を進むほど、父のすごさを感じる。いまも経験を重ね失敗を重ね、勉強が続いている。

匂いはフルーティ、漆は甘い?

隆さんは、小さい頃からうるしが好きだった。「漆の匂いが、いい匂いだなと思っていた。漆がかぶれるものとは知らなかった」と言い、漆にかぶれたことがない。だから、塗師修業に有利だった。普通の人なら、かぶれの洗礼を受けて休みがちだったろう。だが、それは気持ちのせいではないかという。

日本の漆は伸びるので、刷毛も毛が長いほうがいい。毛は人毛でできている。海女の毛が極上のものといわれている。

日本の漆は伸びるので、刷毛も毛が長いほうがいい。毛は人毛でできている。海女の毛が極上のものといわれている。

「親父も東京からきたライターに、『甘いから舐めてみろ』なんて、ウルシの樹液を舐めさせてた。特に、なんともなかったよ。舐めすぎると舌が焼けるけどね」と笑った。実際に漆の品評会で舐めている人を見ることもあるという。舐めると、甘い味がするそうだ。韓国では生卵に入れて飲む人もいるとか。さまざまなトリビアも披露してくれた。本人には記憶がないが、巧さんは3歳くらいのときに全身がかぶれ、ひいおばあさんがじゅうね(エゴマ)を噛んで全身にはってくれたという。しかし、巧さんの娘は、上塗り後の手で触っても平気だというから頼もしい。

ここじゃなきゃ、できないうるし暮らし

材料として仕入れると高価だからと、塗師としては大御所である隆さんも近頃、自ら漆を掻く。「1週間に1回くらい掻いて回ると、(1シーズンで)1年分くらいは採れる」という。自分で漆を採ったときは、やっぱり感動したそうだ。以前、500本のウルシを植えたが、次の年にはカモシカに100本ほど食べられたという、くやしい思い出もある。

 自分で掻けば、浄法寺漆が確保できる環境にある。「ここじゃないとできないよね。わたしも親父がやってたから、見よう見まね。自己流だから、ほんとはだめ。鈴木健ちゃんにばかにされる」と笑う。健ちゃんとは、漆掻きで塗師の鈴木健司さんのこと。Iターンの職人だ。隆さんが始めた当初、浄法寺に塗師は隆さんしかいなかった。だが近年、浄法寺には、若い漆関係者が増えている。

それは市直営の「滴生舎」ができたおかげだと、隆さんは話す。「わたし1人だけで続けていたら、いまのような雰囲気にはならなかったと思います。(秀衡塗の産地である岩手県の)県南にはないから、県北が羨ましいと言われます」と。滴生舎は、工房兼浄法寺漆にこだわった漆器を販売する店だ。隆さんもかつて工房として利用したことがある。若い層が集まり、旅立つまで浄法寺漆をふんだんに使いながら漆器製作をする。岩舘さんが笑いながら言うには、「人間国宝よりもいっぱい使ってる」とのこと。塗師を目指す人にとって、実にうらやましい環境なのだ。

巧さんに岩舘家の未来のことを聞くと、「子どもがやりたいというなら、やってほしいと思いますし、いずれ、うるしに興味がある人が町に集まって、この先何十年も続く浄法寺のうるし文化ができるといいなと思いますね」という答えが返ってきた。

うるしに携わる若い世代が集まる、浄法寺。これからも地域でうるし文化を育んでいくだろう。そして、この地そのものが、「うるしの國」として日本の文化となっていくことだろう。

うるしびとの物語

漆を掻くひと、漆を塗るひと、漆掻き道具をつくるひと…
この地域に生きる、うるしを生業として生きる人々の物語を集めました

小説で楽しむうるしの世界