声がかかれば果敢に挑戦する

鍛冶屋 中畑文利さん

漆掻きの道具をつくるたった一軒の鍛冶屋

二戸市の隣にある青森県田子町。ニンニクの産地として名を馳せるこの町に、漆掻きの道具をつくる鍛冶屋がある。現在、日本で漆掻きの道具一式すべてをつくれるのは、ここ田子町の中畑文利さん、ただ1人。漆カンナ、皮取カマ、ヘラなど、先代の父からその技術を受け継いだ。
 中畑さんは、夫婦で鍛冶仕事をしている。いまは弟子が1人。ガタガタと音を立てて引き戸を開けると、妻の和子さんが「入って入って」と、明るい声で工場に迎え入れてくれた。

その道具がなくなったら、
できない仕事がある

作業場のやや右奥、膝が見えるくらいの深さにくぼんだ場所が中畑さんの定位置。体の前のほうに鉄を熱する炉がある。炉の左側にあるふいごを操ると、「ふおーーーーーふぉーーー」と、やわらかい音が長くのびる。火の神さまの息づかいのように、やさしげな空気音が広がる。

 「わたし、中に何が入ってるんだろうって思って、(中畑さんが)いないときに開けてみたことあるの。でも、なんにもなかった。昔のひとってすごいわね」と、和子さんがけらけらと笑いながら話す。作業する中畑さんの口元が、かすかに緩む。

この日の作業は、ウルシの木にキズをつける、漆カンナの材料づくりだ。ホウ酸と青錆を使い、刃となる鋼を鉄にのせて長方形の板をつくる。最終的には、それから3枚のカンナの材料を切りわける。その最初の工程だという。

路地にある中畑さんの工場はすぐにわかる。掻きキズのあるウルシの木が、建物のまわりを囲んでいる。年輪を感じる味わい深い建物が、そこだけ別の次元にいるように建っていた。

路地にある中畑さんの工場はすぐにわかる。掻きキズのあるウルシの木が、建物のまわりを囲んでいる。年輪を感じる味わい深い建物が、そこだけ別の次元にいるように建っていた。

キン、コン、キン、コン、コン……と、高く鋭く小気味よい音が響きわたる。火花が勢いよく間近までせまってきた。赤く熱した鉄の板を、中畑さんが火箸で押さえ、和子さんがハンマーで叩く。夫婦二人だけにわかる合図があって、作業が始まり、そして終わる。打っては火に戻し打っては戻し、くりかえして成形していく。

先代の奥さんもハンマーを打っていたそうだ。「わたしは勤めてたんだけど、どうせなら早く覚えたほうがいいかなと思って」と、鍛冶屋の女房としての覚悟を決めた和子さん。嫁いだ翌年には、ハンマーを持った。以来40年、二人で作業を続けてきた。

路地にある中畑さんの工場はすぐにわかる。掻きキズのあるウルシの木が、建物のまわりを囲んでいる。年輪を感じる味わい深い建物が、そこだけ別の次元にいるように建っていた。

漆掻き職人と父を師匠として

「おれは、もう形があったときに始めたから、楽だったのさ。親父はたいへんだったと思う」と中畑さんはいう。師匠である父が鍛冶修業をしたのは、浄法寺だった。独立するときに、その師匠から与えられた宿題が「漆掻きの道具」。当時は、掻きの技術も道具も、越前のものがいいとされていた。それができれば食っていけるという、師匠の思いもあってのことだったろうと中畑さんは考えている。つくるための道具さえも、独自につくるような日々。先代が15年かけて、試行錯誤で道具を完成させた。中畑さんはそんな父のもとに、学校を出てすぐ弟子入りした。

鉄に鋼をのせて打ち込む、夫唱婦随の漆カンナづくり。あうんの呼吸で作業が進む。

鉄に鋼をのせて打ち込む、夫唱婦随の漆カンナづくり。あうんの呼吸で作業が進む。

昔ながらの職人の世界。見て覚えるというのが基本である。「形だけはね、同じになるけど、使いものにならないんだ」と、中畑さんは苦心を重ねた頃を思い出す。つくった道具に対して意見を言ってくれる漆掻き職人がいたから、使えるものになっていったといい、「極端に言うと、道具にもこだわっていろいろ注文する(漆掻き)職人は、いい漆を採ってると思う」と語る。職人が違えば、使い方や好みも異なる。同じ職人でも、その年に掻く木の状況によって、カンナの丸くなった羽根の幅や角度など注文が異なる。漆掻き職人それぞれが求めるこだわりに応えていく。

へんな鍛冶屋の、道具づくり

「これさえあれば、だいたいのことはわかるでしょう」と、並べたサンプルは19個。左側の最初の3工程くらいは、直立するウルシの木のシルエットにも見える。

1人で仕事ができる手応えを感じた頃、越前で残っていた道具づくりの職人が高齢もあって廃業を決めた。すると、中畑さんのもとに、西日本からも注文が来るようになった。漆掻きの道具だけではない。関東の茅葺き屋根で使う道具、遺跡から出た道具の復元など、初めて取り組むさまざまな道具づくりの仕事が舞い込む。「へんな鍛冶屋いるからって、紹介されて来た人もいるよ」と笑うのは、それが楽しいからだ。一点ものの道具は、材料を仕入れるだけで赤字のときも。それでも、その道具をつくりたくなる。図面もなく、量産もしない道具づくりに応えてくれる「へんな鍛冶屋」は、声がかかれば果敢に挑戦する。

 「漆もそうだけど、その道具がなくなったら、できない仕事があるでしょう。だから、なんぼかでも助けるためにつくってる。いいわるいはともかくとして、最低限使える道具をつくる。そこから改良して仕上げる」と、中畑さん。そうやってできた道具は、数百種類。壁にかかっているノコギリ以外はぜんぶ、図面もなく、一からつくったものだ。「だから、何種類つくるんですかって聞かれたってね、わがんないね」と笑う。

つなぐ人をつくることが、文化を次代へつなぐ

大病を患ってから、中畑さんは積極的に道具づくりの情報を公開している。遠くの鍛冶屋さんが見たいといえば、躊躇することなくいろいろと教えている。そのときに登場するのが、工程を伝えるサンプルだ。生物の進化の過程のように、道具ができるまでが並ぶ。どの工程がいちばんむずかしいか尋ねると、「どこが難しい?」と、その質問を弟子にふった。弟子は「やっぱり、曲げるところの調整が難しい」と答えた。師匠が返す。「でもね、曲げるのもめんどうだけど、曲げる前の段階で決まってる。前の段階を上手にやってれば次の段階が楽なわけ。どっか粗末にすれば、その後がたいへんになる。やったつもりでも、ただ形つくってるってだけなの」

工場で広げた漆掻きの道具。ヘラやカマと違って、漆カンナは毎年購入される消耗品だ。

 それは、自らも歩んできた道だ。そして、「どんな仕事でも同じだ」と、中畑さんは語る。いかに真剣に取り組むか、辛抱も必要だ。そして細かな注文や急に舞い込んでくる仕事、趣味のつながり……。なんでもいつか役に立つと。漆掻きも、道具づくりも、文化を継承していくことは、つなぐ人をつくることにほかならないのだと、中畑さんは身をもって教えてくれる。

うるしびとの物語

漆を掻くひと、漆を塗るひと、漆掻き道具をつくるひと…
この地域に生きる、うるしを生業として生きる人々の物語を集めました

小説で楽しむうるしの世界