「第31回全国高等学校文芸コンクール」
小説部門 最優秀賞・文科大臣賞

うるわしの里

岩手県立盛岡第三高等学校三年(当時)
佐藤 薫乃

 機械のような手首が、くるっと一回転した。三本の白い指が軽やかに弾んで、四角い柄をリズミカルに躍らせる。短い刷毛の毛先には鮮やかな漆が絡まっていて、リズムに合わせて、器に赤をのせていく。人間の油が付かないように、左手には手袋をはめるのが鉄則だ。内側を全部塗り終わると、スムーズな流れのまま器の底に吸盤を吸い付けて台にかけ、ここでしばらく乾かす。左手はもう、次の器を持っている。鮮やかな右手がまた、深紅の世界を描き出す。

 私の叔母の優子さんは漆器の塗師だ。若いころから今日までずっと、器に漆を塗る仕事をしている。普段はとても穏やかで、どことなくあどけなさの残る人だけれど、仕事中は表情が一変する。口を真一文字に引き結び、淡々と落ち着いた動作で、それでいて目だけはとても情熱的に光らせながら漆器と向き合う。そんな優子さんを見ているのが好きだった。マシンのような無駄のない動きの中には成熟した技がいくつも詰め込まれている。凛とした空間の中で、洗練された塗師と巧みな指、四角い刷毛、木の器だけが静かに動き、やがて鮮やかな漆器が完成していく。心をすっかり吸い込まれるほど面白い。私は子供の頃からずっと、この工房で、優子さんが働く姿を見続けてきた。

 「よし、そろそろ休憩」
 ふっと空気が緩む。塗りかけの漆器がいくつもぶら下がった台を、工房の端にある管理庫に片付けた。庫の中の湿度は常に八十パーセント、温度は二十度に保たれている。綿密な管理のもと、漆の塗料はゆっくりと固化する。固まったら研磨して漆の密度を調整し、その上にまた、再び漆を塗り重ねる。中塗りの作業では約一か月をかけて同じ作業を繰り返し、この段階を経てようやく、仕上げの塗りに入ることができる。

 「朝、お父さんのために握ったおにぎりが余ってるんだ。せっかく天気がいいから、凜ちゃんも一緒にお外で食べよう」
 たちまちあどけない叔母に戻った優子さんは、嬉しそうに立ち上がった。

 六月、北に吹く初夏の風は柔らかい。岩手県のほぼ最北にあるここ浄法寺町にも、夏が訪れかけていた。森の緑をふんだんに混ぜ込んだ空気を思い切り吸い込む。爽やかな酸素が細胞の隅々まで行き渡るようで心地いい。

 「気持ちいいねー」ぐんと伸びをすると、優子さんは、工房の入り口にある階段に腰かけて、おにぎりを包む透明なラップを剥き始めた。
 「この季節はほんと、最高だなー。いよいよ夏が始まるって感じで、わくわくする」
 「わくわく……そうかな」
 「するよ、毎日うきうきする。六月は漆のシーズンも始まるしさ」

 浄法寺町は漆の名産地だ。漆の木から樹液を掻き取る職人がいて、この樹液を塗装した浄法寺塗は、国の伝統工芸品に指定されている。文化を受け継ぐ人々は皆、漆のリズムで生きている。シーズンが始まる六月、盛り漆が採れる八月、最後の漆を掻くのは九月の終わり。森の呼吸に合わせて生活するのは確かに気持ちいい。こんなにも山に囲まれた町に暮らしているとうんざりしてしまうこともあるけれど、澄んだ空気に抱かれる瞬間、ここに生まれてよかったと思う。おにぎりをもう一口かじった。天気のいい日に外で食べる優子さんのおにぎりは格別だ。

 「優子さんさあ」
豊かな大気の流れの中で、十八歳になったばかりの私一人が浮いていた。もう何か月も前から、私の中身はずっしりと重い。どろどろした不安と迷いばかりが脳に溜まっては、息をするたび肺にも、血管にも、心臓にも、形のないどろどろが循環する。そろそろ耐えきれなくなりそうだった。新緑の生命力をたっぷり溶かし込んだ爽やかな空気の真ん中で、私だけが情けなく萎れている。

 「優子さんは、どうして塗師になろうと思ったの?」
 あと一口かじれば、おにぎりの中身に到達する。鮭の端が少しだけ覗いていた。
 「うーん……」
 ゆっくり咀嚼しながら、優子さんは少し考え込むようにして言った。
 「漆が好きだから。っていうか、そうじゃないと続けられないよ」
 「おじいちゃんに、塗師になれって言われたの?」
 「ううん、そういうわけじゃないんだけど」
 おにぎりではない別な何かを、頭の中でじっくり咀嚼しているようだった。優子さんにしては珍しく、歯切れが悪い。

 「浄法寺の漆は、ほんとにすごいでしょ。それを知ってたからかな。だから継いで、あとは仕事をしながら、どんどん漆の魅力に引き込まれていったっていう感じ」
 だから今は漆の仕事ができて幸せだよ、と言って、食べ終わったおにぎりのラップを小さく畳んだ。
 「誰かが繋いでいかないと、どんな伝統も、いつか、すっかり消えちゃうから」

 その言葉が少しだけ寂しそうに聞こえたのは、私の勝手な解釈かもしれない。だけどそんなニュアンスも全部含めて、優子さんの台詞が思い切り胸に突き刺さる。切ない痛みが滲んだ。わかってる、本当にその通りだ。受け継ぐ誰かがいなければ、伝統は途絶える。だから、伝統文化の素晴らしさを知っているなら、そしてその尊い歴史を守りたいと思うなら、自分の一生くらい惜しむことなく、まるごと捧げる覚悟をしなくてはならない。どくん、と心臓が鈍く跳ねて、またどろどろの悩みが体内を一巡りする。
 私のおじいちゃんは、浄法寺の漆掻き職人をしている。代々漆産業に関わってきた家系で、優子さんも専門学校を出てすぐに塗師になった。次に伝統を継ぐのは、いよいよ私の番だ。私の人生が漆に飲み込まれる番だ。

 「おじいちゃん、今日も朝から森に行ってるんでしょ?」
 「うん、行っちゃった。明日から検査入院だし、やめておいたらって言ったんだけどなあ。六月は漆が始まる季節だからね、まあ、家でおとなしくしてろなんて、無理に決まってるか」
 「体、大丈夫なの?」
 おじいちゃんが入院するのは初めてのことではないけれど、それでもやっぱり、家にいないだけでとても不安になる。「入院」という言葉が伴うショックは結構大きい。
 「どうだろう。でも、症状が目立たないだけで、相当難しい病気だっていうのはずっと前から言われてたことだからね」
 おじいちゃんの病気は、ゆっくり、ゆっくり進んでいって、ほんの少しずつ悪化する。だけど、最期は突然かもしれない。
 「でもまあ、あんなに漆が大好きな人の娘で幸せだよ。お父さんもいつまで漆掻きの仕事を続けられるかはわかんないけど、なるべく長く頑張って欲しいな。浄法寺にとって、貴重な職人の一人でもあるから」
 貴重な職人、の一言が重い。おじいちゃんが漆掻きをやめてしまったら、浄法寺漆に関わる大切な人がまた一人、減ってしまうことになる。終戦直後には二百人を超えるほどいたという漆掻き職人も、今では十分の一に減った。掻く仕事にしろ塗る仕事にしろ、漆産業の後継者不足は、この地域が抱える深刻な問題だった。

 浄法寺の漆はすごい。国産漆の七割がここで採れるらしい。金閣寺の修理にも使われたし、海外に売り込んでも反響は大きいという。感動的なほど素晴らしい漆の話をこれまで何度聞かされただろう、もう数えきれない。すごい、わかった、わかったから。十分に知っているから、だから、これ以上私を追いかけてこないで。私の将来を縛ろうとしないで。いつまでもここに住みたくなんかない。一生漆を背負うなんて、そんなの私には重すぎる。「でもさ、うちではずっと漆を家業にしてきて、おじいちゃんも私も当たり前みたいに継いじゃったんだけどね」

 優子さんは青空に向かってすくっと立ち上がる。昼の休憩はそろそろ終わりだ。まだ少しだけ春にかすんだ空の真ん中で、八割の太陽が一生懸命照っている。見上げた優子さんの表情が、光を受けて柔らかな影法師になる。

 「だけど、凜ちゃんは、好きな事やっていいんだからね。やりたいこと見つけて、それに向かって頑張ってくれれば、それでいいんだから。漆をあんまり、重荷に感じないでね」
 そんなこと言われたって、無理に決まっている。こんなにも素晴らしい土地に生まれて、感動のど真ん中で生きてきて、それを全部、簡単にないがしろにしてしまうなんて、そんなことできるはずがない。

 とりあえず都会に出たい、なんて書いたら、やっぱり怒られるんだろうか。真っ白なままの進路希望調査用紙が脳内にぼんやりと漂う。最近の私の悩みの種だ。提出期限が迫っているのに、いつまでたっても何も書けない。もし何を書いてもいいのなら、と、頭の中で太いマジックペンを握る。「漆のないところで暮らす」と殴り書きしてみたものの、特に何が満たされるわけでもなかった。ぴんぴんに伸びた長方形は、むなしい煙に代わって消えた。

 漆はすごい、素晴らしい。知識としては知っている。この伝統文化がいかに尊いか、そのありがたみだってちゃんと理解しているつもりだ。だけど正直、感情がついてこない。教科書を何度読み、覚えても、書いてある内容に感動することは特にない。それと同じようなものだと思う。生れてからずっと漆の魅力を浴びて育ってきた。しかし漆はいつも私の外側をつるつると流れていって、最後に手元に残るのは決まって、自分が彼らを守らなければならないという重苦しい運命だけだ。

 はぁ、とわざとらしくため息をついて、それきり考えるのをやめた。手元に集中しよう。スポンジが含む泡の量が足りなくってきて、食器洗い洗剤をまた少し垂らす。もみ込んだ手の中に、元気な泡が復活してくる。一人で食べた夕飯の後片付けをしていると、不意に、玄関のドアがしまる音がした。優子さんが、おじいちゃんのお見舞いから帰ってきたようだった。

 「ただいまー。凜ちゃんにおみやげ。産直寄ったから、きゃば餅買ってきたよ」
きゃば餅は浄法寺にしかないらしい。子供の頃から当たり前のように食べてきたから、少なくとも岩手県全土で食べられている程度にはメジャーなものだと勝手に思い込んでいた。柏の葉に包まれた、素朴な風情の食べ物だ。「餅」という名前が付いていながら生地は米ではなく、小麦粉でできている。ほんのり甘くて、どことなくケーキに似た感覚と言えるかもしれない。食べると口中に柏の薫りが広がって、私はこれが大好物だ。

 「やった。ありがとう」
 そう言いながら、ふっとおじいちゃんの顔がよぎる。途端に寂しさが溢れた。きゃば餅はおじいちゃんも大好物だ。六月末に入院したおじいちゃんは、七月半ばに入ってもまだ退院できていない。こんなに長く入院しているのは初めてで、日に日に不安が増していく。
 「凜ちゃんに朗報です。おじいちゃん、来週退院できるって」
 「え、ほんとに?やった!」
 きゃば餅をもらった瞬間の何倍も大きな声が出た。よかった、やっと安心できる。
 「うん。でも、あんまりよくなってるわけでもないらしくて」

 どん、と心臓を下から突かれて怖くなる。一瞬興奮に跳ね上がった血液が不安とともに波打った。汁椀を洗う手が止まってしまう。うちではもう何年も、私が生まれるずっと前からこのお椀を使い続けている。漆器は、ほかのどんな材料でできた食器より丈夫だ。絶対に壊れることがない。痛む度に修理を重ねれば、人の一生より長く使い続けることができる。

 「今度は、冬かな。病気の進行次第だけど、ちょうど漆のシーズンが終わるあたりに、また入院するかもしれない」  「それって……」
 「切羽詰まって悪いわけじゃないけど、決してよくなってるわけでもないっていうこと。確実に進行はしてるわけだから、残り時間を意識して、大切に過ごさなきゃならない時期に入ってきたって」

 泡にくるまれた深紅の器が、つやつや光っている。漆器は、使えば使うほどつやが出るところも大きな魅力で、見違えるほどぴかぴかになる。我が家の汁椀の表面はまるで鏡のように光をはじき、自分の顔が映るんじゃないかと思ってしまうほどだ。

 「漆掻き、今シーズンが最後になるかもしれないね」
呟くような優子さんの言葉が、七月の夜風に隠れようとする。それでもはっきりととらえてしまった私の胸の中に、ずんずん、ずんずん、悲しい現実の塊が沈み込んでくる。怖かった。おじいちゃんが、いつか死ぬ。新鮮な衝撃が走った。まるで、命が有限だということを初めて知ったような気持ちがした。おじいちゃんが人生をかけて守ってきた文化、大切な文化、だから絶対、途絶えさせてはならない。守れるのは私しかいないから、私の自由な未来など、きっぱり、潔く諦めなくてはならない。

 「優子さん、ここに生まれて幸せ?」
 伝統って残酷だ。その尊さをいいことに、若い人生へ思い切りのしかかってくる。ずっと浄法寺に住み続けて、当たり前のように塗師を継いで、優子さんの人生は、本当にそれでよかったんだろうか。
 「田舎って嫌だね。なんの刺激もないくせに、背負わなきゃいけないものばっかりで重すぎる。優子さんは嫌にならないの?その生き方、超偉いね。私には絶対無理。なんでこんなところに生まれたんだろ」
 「どうしてそんなこと言うの?」
 普段はとても穏やかな優子さんの声が、少し固くなっていた。
 「みんな、誇りを持って仕事してるよ。そんな嫌々やってるみたいな言い方やめてよ、この人たちみんな、漆が好きでやってるんだから」

 だから、その誇りが重すぎるんだよ。誰に強いられているわけでもないのに、勝手に自分で縛られている。いつもがんじがらめにされて、身動きが取れないまま、ひたすら迷い続けることしかできない。思いが堂々巡りして、いい加減疲れてしまった。

 「生まれてくる場所間違った。もう、めんどくさい」
 だって、一回しか生きられないのに。いつかは必ず死んでしまうから、私は私の好きなように生きていきたいのに。漆を継いでも、継がなくても、私はきっと後悔してしまう。大切にしたい伝統の重みと、不確かでふわふわした夢の狭間にいる。いつまでたっても、なんの覚悟もできない。どうして私ばっかり、こんなことで悩まなければならないんだろう。何もかも、こんなところに生まれたせいだ。漆の存在が無かったら、私はまだ、自由で軽やかな未来に憧れることだってできたはずなのに。蛇口をひねって水を出す。沢から直接引いてきた山水だから、夏でも十分に冷たい。ひんやりと心地いい水の筒で、すべてを洗い流してしまおうとした。筒は漆器の表面で砕け散っては泡を抱き、さらさらとシンクに流れていく。永遠に使える奇跡のような食器が、嘘みたいにつやつや輝いていた。

 翌週、無事に退院したおじいちゃんに頼んで、漆掻きの仕事現場に連れて行ってもらうことにした。一緒に行きたい、と言い出すのは結構勇気が要って、おじいちゃんも少し不思議そうな顔をしながら、それでもすぐに快諾してくれた。
 「はー、天気いぐて、いがったなっす」
 なす、という語尾は、なんとなく敬語のように認識している。とはいえ方言は英語と違って学校の先生に教わるものでもないし、国語のように、授業を受けて勘違いした理解を正す機会もない。自分で聞いて、勝手に覚えていくものだ。

 おじいちゃんの仕事ぶりを、しっかり見ておこうと思った。長年漆掻き職人としてまっすぐに生きてきた真面目な職人を、私の大好きなおじいちゃんが、何よりも深く愛している漆と向き合う姿を、きちんと目に焼き付けたいと思った。繊細な仕事だから、子供が遊びの感覚で付いていくものではないというのが我が家の不文律だった。でも、それではあまりにもったいない。せっかく貴重な漆掻き職人の孫に生まれたのだから、継ぐ、継がないに関わらず、その姿は一度しっかり見ておくべきだと思った。

 軽トラックを降りたおじいちゃんは、どことなく楽しそうに仕事の支度を整えていく。「んだば、始めるども。かぶれるがら、漆さ触らねぇようにして」

 にこやかにそれだけ言うと、振り返って漆と向き合う。私は近くにしゃがんでその様子を眺めていた。おじいちゃんの目がまっすぐに漆の木を捉えた瞬間、たちまち空気が変わった。透き通った風が柔らかく吹く空間には、漆に人生を捧げた一人の職人と、巨大な生命を静かに全うする一本の漆の木、ただそれだけが凛と立っていた。真空に張りつめた世界の中で、命の対峙が始まった。節くれだった武骨な右手からは、白い軍手越しでもその迫力が伝わってくる。強い手と同じくらいに使い込まれたカンナを繊細に操って、大切な一瞬を見事に刻んでいく。カンナが漆の木に噛みついた刹那、すうっと白い線が幹の腹を横切る。瞬間、ぐっと息が詰まるような心地がした。体内を巡る動脈血が一瞬だけためらって止まる。私の底にも、まるで同じ形の傷が刻み込まれたみたいに体の奥がぎゅっと縮まる。傷口があまりにも真っ白だからドキドキした。漆の木の腹に、その命に傷がつけられた事実が残酷なほどはっきりと光っていた。傷跡からじわりじわりと琥珀色の液体が染み出てくる。むき出しになった漆の塊のようでもあり、純白の傷跡に溜まる重たい涙のようでもあった。漆だ。傷をかばおうと一生懸命にじむ樹液はしかし、一瞬にしてへらで掻き取られる。正真正銘の命の滴がまた一滴、タカッポに落ちる。なぜか泣きそうになっていた。生命が二つ、生きている。職人が、そして向かい合った漆の木が、それぞれにそのすべてをかけて生きている。恐ろしいほど繊細で、優しくて、生命力に溢れた空間だった。職人が漆の木に傷をつけて漆が樹液をうみ、そして職人が琥珀色の命をさっと掻き取る、この一瞬に、魂を揺さぶるほどの感動が詰まっていた。

 命は、本当に一瞬だった。だけどその小さな琥珀の滴は、命が溶けた漆の樹液は、切ないくらいに輝いていた。かけがえのない生命を純なままにめいっぱい込めて、艶やかに光りながら生きていた。

 がたがた揺れる軽トラックの助手席に座って、私はただ、痴れたようにぼんやりと窓の外を眺めた。タイヤが砂利を踏む音とともに、鮮やかなグリーンに彩られた景色が後ろへ流れていく。うっそうと茂る木々に見送られながら、漆の森を後にする。

 ただただ感動していた。漆掻き職人と漆の木、二つの生命が堂々と向き合う姿は、神聖なほどに美しかった。私は漆の魅力を十分に知ったつもりでいて、本当は何一つ理解していなかったのだと気付かされる。漆のすごさは、様々なデータが示す数値にはまったく関係のないところにあった。そんな基準では測れないほどの巨大な感動を目の当たりにしてしまった。ただ、シンプルに心を鷲掴みにされ、そして激しく揺さぶられた。一切の理性を排除した、どこまでもピュアな感情だけで、圧倒的に美しい世界が成り立っていた。継ぐとか継がないとか、そんなことはもう、どうでもよくなっていた。

 「漆あ、どんだった?おらばずっと、あった風にして仕事してらのよ」
 おじいちゃんは、誇らしげな表情を隠そうともせず、満面の笑みでハンドルを握っている。楽しげに弾む心の様子が、空気に乗ってすぐに伝わってきた。
 「ほんと、すごかった。感動した。あんなに綺麗な空間なんだって、私、全然知らなくて」「んだべ?漆あ、ほんにすげぇのよ」

 あんなに美しい光景が、私のすぐ身近にある。漆の文化の真ん中に生まれてきたことを、純粋に、幸せだと思った。こんなに誇れる土地に生まれてきたことが本当に嬉しくなった。ここは、ただの田舎じゃない。浄法寺は漆の名産地だ、私のおじいちゃんは、一流の漆掻き職人だ。当たり前のように側にあった事実が、急に愛おしくなる。

 「浄法寺の漆は、もう、一番よ。どごさ行っても自慢でぎる」
 漆を語るおじいちゃんは、こんなに嬉しそうに笑うんだ。普段一緒に住んでいながら、初めて見る横顔だった。浄法寺で生まれ育ち、土地の文化をその髄まで継承した立派な職人の横顔。しわだらけの笑顔を、とても綺麗だと思った。あまりに美しい一つの人生が、私のすぐ隣に生きていた。

 「凜ちゃんさ見でもらっていがったよ。漆の樹液あ、綺麗だったべ?」
 「綺麗だった、すごく」
 それに、おじいちゃんも負けないくらい、綺麗な顔をしてた。口には出せないまま、心の中で付け足した。

 「凜ちゃんは、どった仕事さ就くのかえ」
突然の鋭い質問を受けて、答えに困る。漆の仕事に就いて、この大切な文化を守っていく決意をすれば、同時に私は様々な未来を諦めなければならない。どこで、どうやって折り合いをつければいいんだろう。自由に思い描く未来を、どんなふうに諦めればいいんだろう。漠然としたまま膨らんでいくきらきらした夢の代わりに、家業を継ぐという未来を受け入れる。うまくできる気がしないけれど、大人になるというのはきっと、そういうことだ。始めは真っ白だったはずの画用紙に、いつの間にかいろんな事情が書き込まれていく。何にでもなれるわけじゃない。ままならない事情の数々で溢れかえった地図を握りしめて、その地図が記す範囲で生きていくしかない。

 「まだ、何も決まってない。ごめん」
 おじいちゃんが守り抜いてきたこの土地の文化を、今度は私が継ぐよと、そう言い切れればいいのに。一人の職人の大切な人生が一つ、終わってしまうもかもしれない。だけど、職人が大切に守り続けた伝統はきちんと残すから。だから、私に任せて。胸を張ってそう言いたかったけれど、嘘はつけない。私はやっぱり、都会に出たい。浄法寺が大好きだけど、ここじゃない街でも暮らしてみたい。浄法寺にはない価値観を知りたいし、いろんな世界を見てみたい。夢はどうしても譲れなかった。わがままかもしれないと思いつつ、理想的な孫にはなりきれずにいた。

 「やりてぇごとをやるのせ。凜がしてぇごどを、ちゃんとやらねばないよ」
 「やりたいこと?」
 「んだ、凜がやりてぇごどをちゃんとやるの。したらおじいちゃん、凜がどごさ行っても応援するへで」
 凛が、どごさ行っても。まるで魔法の呪文のように、ふっと体が軽くなる。驚いておじいちゃんの顔を見た。
 「……私、浄法寺から出ていくかもしれないよ。おじいちゃんは行ったことないような都会で暮らして、漆と全然関係ない仕事に就くかもしれないよ」

 考えるより先に言ってしまった。胸の端が、小さく破れる音がする。おじいちゃんを傷付けたくないのに、身勝手な夢ばかりが暴走してしまう。大人になりきれない自分が悔しい、だけど、未来はやっぱり譲れなかった。
 「行げばいい。凜の一回だけの人生だおん、やりてぇごどやって、ちゃんと生ぎねば後悔するべ」
 声がとても優しかった。心の真ん中に、一番まっすぐ届く音色だ。嘘のない柔らかい言葉は、戸惑うほどに温かかった。
 「いづまでも生ぎてぇったって、そった風にはいがねぇもんだおんな。んだから、おらばはぁ、幸せよ。漆掻きさなりたくて、なってからもいろいろあったどもせ、やりてぇごどばりやって、ほんにいがったのよ」

 七十歳を過ぎたおじいちゃんが発する「幸せ」が含む意味を、その重みを、窓の外の緑を眺めながら、ぼんやりかみしめる。豊かな空気に委ねるようにまた溶かしては、じっくり、腹の底で消化する。その人生をまるごと漆に捧げたのは、伝統を守りたかったから、でもきっと、それだけじゃない。おじいちゃんは、自分が好きなものに、やりたいことにまっすぐに向き合っていた。漆を掻く背中をあんなに美しく見せていた正体は、混じりけのない漆への愛だった。私が見たのは、自分の夢に正直な人生の後ろ姿だった。

 「あっという間に終わってしまうべ、だがら、ちゃんと生ぎねばねぇのよ」
 一瞬だった。森で見たあの刹那が、ふいにフラッシュバックする。一瞬だったけれど、その小さな琥珀の滴は、命が溶けた漆の樹液は、切ないくらいに輝いていた。かけがえのない生命を純なままにめいっぱい込めて、艶やかに光りながら生きていた。不意に、おじいちゃんの人生そのものと重なる。

 「一瞬……」
 「んだよ。だがら凜ちゃんも、頑張らねばなんないね」

 しわだらけの横顔が、とても優しく笑っていた。大好きなものに命を懸けて、すべての一瞬に真摯に、情熱的に向き合って生きてきた人生が、幸せそうに笑った横顔を見た。

 胸に一滴、ぽとん、と、何か尊い滴が落ちた。あまりにも簡単な事だった。私が悩んで、悩んで、体内でかき回し続けたどろどろを溶かす特効薬は、拍子抜けするほど明白に、そこでつやつやと光っていた。やりたいことをやる、好きなものに真剣に向き合う。おじいちゃんの背中が教えてくれたものはとてもシンプルで、それでいてとてつもない威力があった。あっという間に何もかもが浄化されていく。体中をさらさらした爽快感が巡る。軽トラックの窓を開け、七月の風を吸い込んだ。細胞の隅々まで行き渡って、北国の夏に溢れかえる酸素は、今日は格別気持ちいい。

 やりたいことは何だろう。今はまだ、何もわからない。だけど案外、ヒントはそこらじゅうに転がっているのかもしれない。見落としていることがきっとたくさんある。十八年も漆のそばで生きてきて、それでも今日ようやく、漆の本当の魅力に気付いたくらいだ。新しい素直な心で、いろんなものに触ってみたい。まずは、もっと漆を知ろうと思った。凝り固まった見方でずっと接してきた漆と、もう一度、まったく新しいものとして出会うことができる。そう考えると、とても面白い世界に生きている気がした。

 一瞬、そしてその中に、かけがえのない輝きがめいっぱい、詰め込まれている。だから、その瞬間に命を懸けて生きていく。一瞬の命を幸せで満たすためだけに、ただ、大切に生きる。誰だって永遠には生きられない。それでもおじいちゃんは、幸せだったと、確かにそう言った。自分のやりたいことのために、自由に叶えたい素直な夢のために、真摯に生きた職人の言葉を聞いた。

 「あ、おじいちゃん、産直寄ってよ。きゃば餅食べたいから、寄ってちょうだい」
 「凜ちゃんも好ぎだおんねぇ、おじいちゃんの孫だ」
 「うん、優子さん今日も工房で仕事してるから、優子さんの分も買おう」

 優子さんに、きちんと謝ろうと思った。優子さんが言った「誇り」の意味を、私はようやく理解できた気がした。その尊さを背負うとき、ただ重みに耐えようとしたって続くはずがない。本気で向き合って愛さなければ、漆の生命と対峙することなんて絶対にできない。優子さんが漆器を塗る目を知っている。情熱的な眼差しには一切の嘘がない。おじいちゃんも優子さんも同じ、ただ漆を愛し、故郷を愛して生きている。

 ここに生まれてよかった。おっとりした性格の空と柔らかく凪いだ風、どこまでも続く山の稜線、そんな景色に囲まれて穏やかに暮らす人々に、彼らを包むゆっくりした時間の流れ。一見どこにでもある優しい地方、だけどここは、ただの田舎じゃない。浄法寺は漆の名産地だ。漆、うるわしの里。豊かな酸素と荘厳な伝統、そして、どこまでも膨らむ生命力に溢れた町。私はここに生まれた。

 例えばあの琥珀色の樹液が、ほんの一瞬、優しく光り輝くように。使えば使うほどつやつやになる美しい漆器のように、限りなく真摯に一本の木と向き合う、漆掻き職人の人生のように。うるわしい土地が生んでくれた命を、この一瞬を、永遠に愛して生きていく。

佐藤薫乃さんは中学校まで浄法寺で過ごしています。生まれ育った浄法寺を舞台に、進路に迷う高校生が主人公。祖父は漆掻き、叔母は塗師という設定で、滴生舎などにも出向き、取材を重ねて書き上げた作品が、全国高校文芸コンクール小説部門で最高賞を受賞されました。ご本人の許可のもと掲載させていただきました。

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